ブログ・活動レポート

 早朝昼夕方夜、雪は見る時間帯によってさまざまな色を魅せる。固体のようなときどき半液体のような、この形状だからこそ雪と戯れ、雪をかまったり雪にかまわれたりしていられるように思う。もしすべて透明な液体で度重なり降っていたとすれば、誰も戯れる気にならないだろうし、雪まつりなんてイベントももってのほかだろう。雪が雪でまあ良かったなどと思う。

 毎冬ながら、雪国と非雪国の暮らしや与えられるものの違いについて考えさせられる。 家から除雪道までかんじきで道付けをする時間なども冬仕事ではあるし家を守ることに関係しているけど、経済には直結しない。むしろコストなのだろうけど、雪は降った先でそれぞれの人に多様な時間を与える。 冬の晴れ間の美しさ、雪が音を吸う静寂などは言葉で説明しがたい感覚だ。

 家周りに積もった雪をかんじきとダンプとスコップで最低限どうにかする。難儀がりながら身体を組み替えるような時間を与えられる。 降った雪を踏み続けて進んだ先で振り返ったり、掘って掘り続けてふと振り返ると、そこには単純作業なりの反復を繰り返した眺めができていて「美しいなあ」と悦に浸りながら暮らす。雪にまいりながら雪と戯れながら、私たちは夢中で踊っているのかもしれないなどと思うことがある。

 雪考は春まで続く私の楽しみでもある。 雪を掘り続け、春になれば土を耕す。これ以上でもこれ以下でもない農山村の暮らしの時間が流れるなかで、とりわけ春に私は自分の再生を感じ取り、循環を想う。病める時も健やかなる時も共にだ。いずれ私も雪となり土となる。(伊直)

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